自分の声を聴いちゃダメ!

お風呂で、気分良く流行りのJ Popを歌うのも、演歌を唸るのも、それは実に気持ちの良いものだろう。

しかし、日本のオペラ歌手の多くが、自分の声を自分で確認しながら歌うことを当たり前だと思って疑わない、それはおかしい。

オペラ歌手の声は、劇場の客席で花開くもの。ところが、自分で確認しながら歌ってしまうと、遠くに届くためには絶対に必要不可欠な、「息のスピード」が落ちてしまう。そうなると、稽古場の中や舞台の上の仲間内と前から5列目ぐらいのお客様にまでは、実に立派に聴こえる声になる。それもうるさいぐらいの声になる。それを歌手たちは、自分の声が大きい、と勘違いするのだ。だが、それはオペラ歌手の「声」ではない。乱暴に言い切ってしまえば不快な「雑音」でしかない。オペラ歌手が、声の美しさを劇場の隅々にまで届けられないのであれば、隠れてPAを入れたりせず、ミュージカルのようにそれぞれがマイクをつけて、囁くように歌った方が、よほどその歌手の持つ歌心で、聴衆の心を打つことができるだろう。その手の「大声」は、多くの場合「粗い」と同義語なのだ。

俗に言う「そば鳴り」の声は、前述のように劇場の奥には、届ききれない。上がり損ねた打ち上げ花火のように、ホームランになり損ねた外野フライのように、なんとも観ている(聴いている)側にはフラストレーションが溜まることになる。

なぜヨーロッパのオペラファンは天井桟敷に集まるのか。チケット代が安いからばかりではない。劇場の中で一番いい声が聴けるのが、天井桟敷なのだ。高額な平土間はオペラを「観て」楽しむお客様のため、「聴いて」楽しむお客様は、舞台から離れた、上の階に集まるのである。

声は、いわば運動選手の「走る」と同じ。「素材」であり「基礎」である。考えていじりながら舞台で出すものではない。走るフォームを考えながら競技会で走っても勝てないだろう。

オートマティックに、入るべきポジションに入り、息が走り、喉がヒリヒリしないところで歌うことができる、それを可能にするのが発声の勉強であり、訓練である。そしてそれは、長く歌っていくための秘訣でもある。フィギュアスケートの選手は、きれいな弧を描くステップの基礎練習を欠かさない。バレリーナは1番のポジションから順番に身体をほぐし、筋肉を伸ばステップバーレッスンを欠かさない。フィギュアの選手は、朝一番リンクに出たそばから、トリプルアクセルは跳ばない。バレリーナは、バーレッスンなしにピルエットを回らない。なのにオペラ歌手は、なぜ自分の声を訓練することを軽視するのだろう。(勿論、オペラ歌手のみんながみんな、発声を軽視しているというわけではない。)

声を歌手自身のまわりから離して、「遠くで聴くほど美しい声」にすることは、骨伝導で聴こえる自分の声の充実感を追いかけているうちは(自分の声が自分に一番立派に聴こえる間は)無理だ。

なぜそんな当たり前のことを、イタリアで勉強してきた多くの声楽科の先生が教えないのか。

音楽の「表現」は声をそれらしく作ることではできない。息の上に乗って飛んでいく声の、その先で、ディクションの扱いや、息の量でメリハリやうねりを作るのだ。声の訓練と表現の研究は、別なのだ。基礎が出来て、その先に表現がある。

そんな当たり前のことが、置き去りにされて見ないふりをされているのが、日本の声楽界と言わざるを得ない。近年特にその傾向が強くなってきている。なぜだ、なぜなのだ??