喉で歌う声は、育たない

私はこんなことをいつまで言っていなければならないのだろう。たぶん死ぬまで言い続けているのだろう。

日本のオペラ歌手の多くは、なぜ喉で声をコントロールするのだろう。喉で作った声は、育たない。これは、日本人だけではない、今やイタリアのスター歌手にも情けないかな同様なことが起きているが、特に日本の声楽教育は酷い。

育たない=熟成しない、ということだ。

年齢を重ねたときに、人として色々な経験をして、若いときには分からなかったその役、その歌に込められた人間の喜怒哀楽を表現しようとしたときに声が無くなっているのは、歌手としてあまりに悲しいではないか。

イタリアの発声に限らなくてもいい。自然に言葉が発語できて、声が自由になり、喉が疲れずに、劇場の一番奥の聴衆にまで声の快感と表現による感動を与えられることが出来ればよいのだ。いろいろなメソッドがあるだろう。それでいいし、絶対的な「これ」という発声法はない。楽器が身体の中にある以上、母語がそれぞれ違う以上、そのアプローチ方法が千差万別にあるのは当たり前。それぞれの歌手が、これと思う、自分にフィットしたメソッドを選び取れば良いだけのこと。

それは同時に、色々なコーチから教えてもらったことをアレンジして自分にマッチする発声法を身につけた歌手が、自分の方法が絶対無二な方法であり、そのまま他人がやってもうまくいくと信じて疑わずにそれを若手に教えても、それはなかなかうまくいかないということだ。教えられたことをアレンジしながら、その若い歌手が成長していければ、それを喜んでやればいいではないか。自分と同じことをしなければダメだと愚かなことを言う教師がまだ数多く存在すること自体、私には理解できない。学ぶ側もまた、必要に応じて教師、コーチを変えていけばいい。ただそのためには、自分が今、何ができて、何が足りなくて、何を学びたいかが見えている、というのが絶対条件となる。

いかなるメソッドであれ、喉で歌うオペラ歌手は、数年しかその声は続かない。あるいはどんなに年齢を重ねても声に色合いが生まれてこない。若い時のままで味が出ない。力わざは、どこまでいっても力わざの域を出ることはできない。(その前に力で歌いきれなくなって潰れるケースがあまりに多いが。)

そういう歌手の多くは、学生時代以来、声の調整を他人(コーチ)としていない、という信じられないことを平気でやる。世界のトップクラスの歌手はそんな無謀なことを誰もやっていない。定期的に信頼できる「第三者の耳」にチェックしてもらい、ズレを矯正し、声のメンテナンスを欠かさない。それを自分一人で出来ると思うなど、世界的に見ても「論外」の実に浅はかな行為なのである。

オペラ歌手は、息を使って声帯をきれいに合わせて声にするために、体全体を使う。言葉を強く言う時に、あるいは、音量を上げるときに、息を止めて喉で押してそれをやれば、声帯周辺に力が入る。それが声帯周辺の筋肉のバランスを崩していき、声帯自体の歪みやポリープといった病気を引き起こす。フレッシュな声を、まだ20代の声を、あっという間に60,70代のような、大きく揺れる年老いた声にしてしまうのは実は簡単なことなのだ。そして早期にそのことに気がついて手を打たなければ、その声は、もう声の若さと輝きを取り戻すことはできないのである。

歌手を潰すのは簡単だ。大きな声だと褒め、器用だと褒め、お前は何でもできる、大きなもの、重いものができると褒めることだ。そう教える方が簡単だ。実に無責任極まりない。実際はそうではない。声が本当に鳴り始めるのは軽い声は若くして鳴るが、低声になるほど、本当のその人の声が出てくるのに時間がかかる。昔からバリトンは40から、バスの盛りは50から、とイタリアでは言われてきた。どこまで我慢をさせるか、いつか出来るようになるが、その時は今ではない、と伝えてやるのが教師の務めというものだろう。

聴衆もそう。一番前に座って姿や演技を褒めてくださるのはいい。だがそこで聴こえる声を褒めるのは、やめていただきたい。そこで聴こえる声は本来は「捨て声」に過ぎず、声はそうした席の頭の上を通り過ぎていくものだ。最前列に焦点が合う声は、つまりは劇場の奥にまで響いてはいない。

単に太く落として、立派そうに歌っている声と、声の成長の区別がつかないのなら、評論家は声について語らないでいただきたい。

大人が寄ってたかって若い芽を潰しているのだ。歌手として一生を生きていこうと大志を抱く若者たちを無責任に潰すのは、やめようではないか。私たちが彼らの将来を潰してどうするのだ!?