伴奏を聴いて歌い出す日本人

今回、とある仕事で、続けて10回以上の邦楽の演奏会を聴かせていただく機会に恵まれた。邦楽は実際は大変幅広く、一概に論ぜられるものではない。しかし邦楽の楽器(筝、三絃、尺八、あるいは笙)を用いた現代作曲家の作品と、古典の邦楽曲の演奏を聴き比べてみると、実は私が違和感を抱いたのは、古典ではなく現代作曲家による楽曲の方だった。古典の、つまり伝統的な五線譜ではない楽譜(楽器によって数字の羅列であったり、楽器の音を模したカナであったり、漢字とそれらの組み合わせであったりする)で書かれたものは、日本人がDNA として持っていると思われる、なんとも言えない「間」と、誤解を恐れずに言えば「ズレ」を楽しむことに美学がある。だからこそ一斉に揃えて演奏することを求めるタイプの現代音楽と邦楽楽器とは、どこか不似合いにも感じられたのだが、今回書きたいのはそこではなく(第一、それを論じられるほど私は邦楽に詳しくない)、日本のクラシックの歌手によく見られる「伴奏を聴いてから歌い出す」習性が、実は我々の民族的なDNAに起因しているのではないかと私自身が気がついたことである。

日本人には、一般的に伴奏を聴いてそれを確認してから歌い出そうとする習性があり、西洋音楽の、拍の頭におたまじゃくしが存在すればその冒頭から音が鳴っていなければならないリズム感に乗り損ねる傾向がある。極端に言えば、本来は歌が先に出てそのあとからピアノなりオーケストラがついてくるタイミングで書かれている西洋音楽を伴奏を聴いてそのあとから歌い始める邦楽方式でやれば、当然数分の一あるいは数十分の一秒遅れて出ることになる。そのため西洋音楽の作品の持つ冒頭のアクセントのあるリズムが薄れて聴こえることがある。私自身がよく批評で「まるで仮名書きのような音楽」、「立体感を感じづらい平面的な音楽」と書きたくなる現象の原因の一つがここにあるのだということに、今回初めて思い当たった。(今頃か!?と言われそうだが。)

オペラも邦楽の唄も「語り」であるのは同じである。どちらも物語の筋を語り、あるいは心情を吐露することは共通なのだが、規則的な拍の中での表現を求められるオペラと、拍の伸び縮み、あるいは拍を感じさせない、いわゆる「阿吽の呼吸」で進む邦楽は異なる。繰り返すが、我々は無意識に血の中にこの邦楽の独特なズレに美を見い出す力を持っている。が、これは、私たちが西洋音楽を演奏する際には、意識しておくべきことである。西洋音楽のリズムは、我々が感じているよりも能動的に進むものなのであり、拍の頭が遅れて入る約束は、存在していないのである。(河野典子)